Les journée patrimoines.

世界遺産の日。



先週の土日、フランスは世界遺産の日でした。
フランスには普段一般公開されていない公などの建築物に、
歴史的に、芸術的にすばらしいものがたくさんあります。


これらが閉ざされているのは、もったいないではないかということで、
2003年から1年に一度一般に公開しようという動きになりました。
それが、「世界遺産の日」なのです。


私はパリに来てはじめて知ったのですが、この日はフランス全土で行なわれるらしいのです。
今までアンジェでそれを知らなかったのが、ちょっと残念だなあ。


という訳で、私は日曜日にセーブル陶器の工場見学にいくことができました。
普段見る事の難しい制作過程をガイド付きでみれた。


工場内に勤務している知り合いの施釉師、ロクロ師、絵付け師の方にも
久しぶりにあいさつできてうれしい。
今回見てきたのは、ロクロ成形、鋳込み成形、金彩絵付け、金彩ポリマー、色彩絵付け、
石膏型の制作、電気窯、円形煙突式上り窯、施釉の各工程。
最後、知人の施釉師のお誘いで皿の釉掛けをセーブル式(?)で体験させてもらった。



この二日間は工場内勤務の職員がボランティアでやっているらしいのですが、
最後の小さなソワレに少しだけ参加させてもらった。
完全に部外者なのだけれど、工場内のアットホームな感じが見れてよかった。






最近、自分を見失っていないけれど、でもちょっと見失っている。



パリの生活はあわただしい。
ものすごくたくさんの視覚要素があって、頭を休める事はできない。



これからどう生きていくかとか、制作の続け方とか、自分の作品のとどまり具合や方向性とか。
どうやって食っていくか、何が必要なのかとか、それに言葉の壁もとても大きい。
大学を卒業して、未だ徘徊をしていて、そして未だ自分が何者になりたいのか自分でも分からない。
やりたい事はたくさんあるけれど、自分をうまく組織できない。



でも、到達地点なんて決めない方がいいとも思ってる。
満足したらそこで終わりがきちゃう、一度うれしくて、次の瞬間に怖さがくるんだ。
それでも毎日が繋がっていて、思い出したり、想像したりする。



でも、生きていくにはもっとなにかものすごく動かないといけない気がしている。
どうやってしっかり生きていけばいいのだろう。



仕付け作業がしっかりできない私は、いきなり本番に行こうとする。
これはあまりいいとは思えない、でもついやってしまう。
自分のダメな所って、行動の種類を問わず、共通しているから不思議だなあ。



生きていくには、もっと知識が必要で、考える時間も必要だけれど、行動する事も必要で、
わたしには欠けた部分が多すぎる、当然ながら。



最近一日の長さが短すぎてる、パリに来てから。
ただ言えることは、生きてれば、楽しければなんでもいいやってことかな。



人と話すのは本当に必要な事だ。
自分でも想像できない明るい人間になれたりするからね。
それは演技でもなく、それもちゃん本当の自分なんだと思う。



でさ、何がしたいんだろうに戻ってくる訳よ。
外国に来たのも自分の考えできたし、
そうであっても自分は外国人なんだなって思うとつい悲しくなったりもする。
でもその代わり、外から来たからこそおもしろい出来事ってたぁっくさんある。



言葉の壁も、距離の壁も、なにか違いがあるからこそ出てくる。
とにかく、たのしく生きないとだな。
日々変っていく事がおもしろいんだ、それが人生、それも人生かな。




いま人と深く深く話すことに満たされていなく、
それが言葉の壁も伴ってそろそろつらくなってきている。
これは別に嘆きでも訴えでもなんでもない。
不特定多数の人につらつら悩むのってあまり自分に取ってうれしい行為でないんだけれど、
とにかく今は距離がありすぎて、話したい人とちゃんと話せない。



みんな元気かな。
わたしは元気なんだけれどな。
一所懸命ちゃんと生きたいな。